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編集長の視点|松永 和紀

どんなコラム?
職業は科学ライターだけど、毎日お買い物をし、家族の食事を作る生活者、消費者でもあります。多角的な視点で食の課題に迫ります
プロフィール
京都大学大学院農学研究科修士課程修了後、新聞記者勤務10年を経て2000年からフリーランスの科学ライターとして活動

両論併記の罪〜東日本大震災5年に思う

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2016年3月11日

 毎日新聞社が3月7日朝刊に出した「福島・甲状腺検査 子のがん「多発」見解二分 過剰診断説VS被ばく影響説」を読んで、「両論併記の罪」という、昔考えた言葉を思い出しました。

 私は1999年に同社を退職して、2000年からフリーランスの科学ライター、ジャーナリストとして活動を始めました。最初は、科学雑誌への企画売り込みから。今はなき「科学朝日」や「日経eco21」という日経ホーム出版社の雑誌などに持ち込みました。たとえば諫早湾干拓事業の是非、当時医療現場で浸透し始めていたEBM(evidence-based medicine、根拠に基づく医療)の観点からのがん検診批判など、自分の関心の持てるテーマを取材して原稿を書くのです。肩書きなしで現場に入るわけですから、農水省の役人に「どこの馬の骨か」とあからさまに侮蔑されたりしましたが、良い経験でもありました。
 ただ、最初の1年くらい、どうしても突破できないことがありました。両論併記スタイルを捨てられないのです。

 新聞記事は対立する構造があった時に、一方に肩入れして書く、ということを嫌います。必ずと言って良いほど両論併記です。行政の施策についての市民の声をとる時も、最初から賛成と反対と両方探します。鋭く対決する問題ならなおさら、両論を伝えます。それが、1人対99人であっても1人を無視せず伝えて、中立性を示すわけです。

 私は、その意味を深く考えるのではなく「新聞というのはそういうものだ」という感覚でした。それに、この手法は楽なのです。記者自身の考えを示す必要がなく、どこまでも客観的、つまりは安全圏にいられるのですから。

 慣れてくると、もう少し高等なテクニックを覚えました。取材を進めると、両論併記するにせよ、やっぱり「こちらの言い分の方が勝っている」などと思うようになります。たとえば、賛成、反対、コメントを並べる時に、どちらを先に書くかによって、読後感はまったく異なります。反対派が後なら、「やっぱりいろいろまずいことも起きそうね」というのが読者の着地点。そこを利用します。あるいは、かたや硬い言葉を書き連ねるコメントに仕立て、かたや軟らかい「かわいそう」という気持ちを起こさせるような言葉に。小細工で印象を変え、方向性を作ることが可能です。

 そうやって、両論併記を装いながら読者の読後感を恣意的に操作する、というようなことをやっていました。いえいえ、意識的にやるほどの悪辣さはないのですが、振り返ってみると計算していたなあ、と思うのです。

 私の場合、この「両論併記で、自分は安全圏において書く」というスタイルを、フリーになってからもなかなか捨てられませんでした。これをしないと、中世公立なジャーナリストの立場を保てないような気がしたものです。しかし、できあがる原稿はそれなりに取材はよくしてあるのですが、どうも我ながら、ぱりっとしません。おとなしい行儀のいい原稿でしかないのです。

 1年くらいたって、「これではダメだ」と思うようになりました。雑誌の読者は、へぼ記者の中正公立を求めているはずもない。両論併記は実は、自分にとっても読者にとっても、とても罪深い。読者は、だれかの独自の見方を知り、それを批判したり共感したりすることで、次の思考へと進もうとしているのではないか。批判を恐れず、叩かれながら、「間違っていたらご指摘ください」という関係を読者と作らなければ、私自身も進歩できない、と思うようになりました。
 思い切って、「私はこう思う」ということを原稿で明確に打ち出すようになりました。

 もちろん、両論併記がすべておかしい、ということではありません。五分五分の論が二つあるのなら当然、両方とりあげます。片方の論拠が弱くても価値があると判断すれば、それを大きくクローズアップしたりもします。ただし、こちらの論に賛成しているのは99人、あちらは1人、そして私もこちらの論を支持する、というようなときには、あちらは迷うことなく原稿から切ってしまいます。だって、私がとりあげる価値なし、と思うのだから、「私の考えを信用してくださいよ」ということなのです。

 そうは言っても、両論併記の呪縛は、かなりのものでした。判断して片方を切るには、しっかりと取材して私自身が自信をもっていないといけないのです。いつも完璧な取材などできるはずもありませんので、しばらくはグラグラして、どちらともとれるような原稿を書いたりもしました。私の場合には「商品になる原稿を書かなければ」というところで、なんとか脱したというのが実状です。今や、皆様もご存知のとおり、恐れず好き勝手を書いて批判を受けてもへっちゃら。いやあ、面の皮が厚くなったものです。

 その経験があるので、新聞が両論併記に逃げ込む感じはよくわかる気がします。取材を十分にしていても、大きな組織があって、長い伝統に基づくスタイルが確立されている。記者個人の思いはいろいろでしょうが、組織として変わるのはとても難しいはずです。
 でも、その結果、読者は対立する二つの論の妥当性の程度がわからなくなり、支持者がどれくらいの割合かも判別できなくなる。やっぱり弊害はあまりにも大きすぎます。
 東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故以降、新聞社はどれだけこの両論併記を繰り返したのでしょうか。

 事情はわかるにせよ、今回の毎日新聞の甲状腺がんの論争記事は罪深い、と私は思いました。私だったら、津田敏秀・岡山大教授の「被ばく影響説」を、国立がん研究センターの津金昌一郎・社会と健康研究センター長の「過剰診断説」と並べては書きません。二分とは表現しません。私の感覚だと、科学者の見方は「被ばく影響説」1人に対し「過剰診断説」99人。いえ、999人くらい離れていると思います。

 どうして毎日新聞が二分と表現するのか、理解に苦しみます。それに、記事では、全国平均の甲状腺がん発生数に比べ福島県では30倍の甲状腺がんが発生していることを強調していますが、30倍という数値を市民の間で独り歩きさせることは好ましくありません。
 30という数値は今のところ、科学的な意味合いが不明です。全国平均の発生数は、異常を感じて受診して確認された数なのに対し、福島県では子どもを網羅して検査して見つけ出しています。30という数字が出てくると、とても科学的であるように見えますが、単純に何倍などと比較はできるはずもありません。それに、環境省が行った長崎や青森など、原発事故の影響がない自治体での福島と同様の網羅的な甲状腺がん検査の結果は、むしろ福島の方が少ないのです。

 津田教授の論文についてはほかにも問題があり、掲載された学術誌Epidemiologyにも複数の専門家の反論が掲載されています。多くの科学者が異議を唱えているのです。毎日新聞の記者は、そんなことは十分にわかっているはずなのに触れないのも解せません(反論を整理してリンクしているtogether12)。

 東日本大震災、福島原発事故から5年ということで、日本のマスメディアはいろいろな記事を出していますが、海外の学術誌もこのところ、原発事故とヘルスリスクについてかなり取り上げています。米国のScience誌の記事は、国立医薬品食品衛生研究所の畝山智香子先生が、自身が運営する食品安全情報blogの3月4日付で翻訳してくださっています。ここでも、津田教授の論文は強く批判されています。Business newslineでも、Science誌の記事が紹介されています。

 英国のClinical Oncology誌も、7編の論説や報告を集めて特集を組んでいます。そこで強調されているのは、放射線による直接的な健康影響は検出されないレベルで、原発作業員と周辺住民の両方においてよくコントロールされた一方、避難による生活の変化や精神的なストレスが、大きな健康影響や死をもたらしてしまった、という事実です。
 Clinical Oncologyでいろいろな科学者が、この福島での経験を、今後の原発事故や低線量の被ばく対策、それにコミュニケーションに役立てて行く必要がある、と繰り返し述べています。

 同誌は学術誌ですが、とても興味深いことに「福島のエートス」の安東量子さんが「Personal View」として2ページにわたって寄稿しています。最後にこれをご紹介しましょう。エートスは、住民が主体となり自主性を持って、生活と環境の回復にかかわり放射線防護を行う、チェルノブイリで生まれた取り組みだそうです。いわき市に住む安東さんは植木屋さんですが、勉強会を開き活動してこられました。ICRP(国際放射線防護委員会)ダイアログセミナーにも加わり、情報を発信しておられます。科学者ではない安東さんの思いが、いわき市から学術誌で世界に広がっているのです。

 安東さんがお書きになったのは「Reclaiming Our Lives in the Wake of a Nuclear Plant Accident」。原発事故の後、私たちは暮らしを取り戻そうとしています、という感じでしょうか。
 避難していた人が戻ってきて、線量計を身につけて測定値を見ながら日々の生活を取り戻していったことが報告されています。裏山で長く働くと被ばく線量が大きくなり、家にいると小さい。だから、裏山で働く時間を自分でコントロールして生活するのです。自分で身につけ数値を見ながら、1mSvが1000μSvである、というようなことも学んでいった、といいます。

 内部被ばくについては、ホールボディカウンターで測定してもらい、自分で栽培した野菜などを一定期間食べた後に、さらに2回目の測定をし、放射性セシウムが検出されないことを確認し、大地や栽培した野菜などへの信頼を取り戻して行ったそうです。安東さんは、身近にいるこうした人たちの姿を紹介し、住民自身の手によって地域を再興し互いの関係性をまた作り上げて行く、という“宣言”を綴っています。

 ほかの報告がすべて科学の言葉で語られているのに対して、安東さんの文章は感情がほとばしっており、それ故に強さを感じます。メディア人の安全圏からの論考など吹き飛ばす強さです。
 学術誌がこれを掲載したのに、日本のマスメディアは? いえいえ私は、なにをしているの? そんなことを思いながら読みました。

 安東さんはtwitterで、冒頭の毎日新聞の記事を強く批判していました。「読み手の受け取る印象を考えると、どれほどナーバスな問題なのか理解しているとは思えない」とのこと。そして、両論併記も批判していました。やっぱり。
 結局、書く者も覚悟が問われているのだと思います。そのことを、東日本大震災と原発事故以降、日々強く感じています。11日で5年です。

(2016年3月10日発行の会員向けメールマガジン第240号に掲載した記事を、一部変更して公開しています)

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