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執筆者

田中 伸幸

東京工業大学大学院修了、電力中央研究所入所。主に化学物質の環境リスクについて研究している。料理は趣味で、週末は3食とも担当

調理と化学物質、ナゾに迫る

外の空気より家の中の空気が汚い? 調理排気のリスクとは

田中 伸幸

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 「家の中の空気は、外の空気より汚れている」と書いたら、読者の皆さんは驚かれるでしょうか。おそらく多くの皆さんは、かつての公害や環境問題を想像して、家の中は安心と思われているのではないでしょうか。実は、冒頭に書いたことは事実です。勿論、全ての家が、ということではありませんが、いまや屋内の空気の方が屋外よりも汚れていることが多いのです。そして、私たちが屋内で1日の大半を過ごしていることは、少し考えればお分かり頂けるでしょう。1日のうちで屋外にいる時間は、普通のサラリーマンで3-4時間程度、よく外で遊ぶ子供たちであってもせいぜい6-7時間程度です。つまり、それ以外の時間は屋内で過ごしています。そんなに長い時間を過ごす屋内の空気が、実は汚れているのです。

 では、屋内の空気はなぜ汚れるのでしょうか。屋内空気汚染の主たる原因は、シックハウス症候群の原因である壁紙からのホルムアルデヒド、冬季の石油ヒータによる暖房、タバコの煙、そして「調理排気」です。このうち、タバコの煙まではわかりやすいかと思います。ところが、最後の「調理排気」はどうでしょうか。調理から出る「排気」が室内空気を汚染しているとは、あまり考えておられない方が多いのではないかと思います。むしろ、調理から出る匂いには心地よいものもあり、例えば炭火で鰻を焼けば、それだけで食欲がそそられることもありましょう。当然のことながら、全ての調理排気が悪いわけではありません。しかし、調理排気の中にはヒトの健康に悪影響を及ぼしうる物質が含まれていることも事実なのです。

 ところで、一口に調理排気と言いますが、この中には具体的にどのような成分が含まれているのでしょうか。最も多い成分は、食材の加熱、あるいは燃料の燃焼に伴って排出される水蒸気であり、これが調理排気の大部分を占めます。また、加熱により食材に元々含有する成分が揮発して調理排気となる場合もあります。例えば松茸を焼けば松茸の、チーズを焼けばチーズの匂いがしますが、これは元々、松茸やチーズに含まれていた成分が加熱により揮発して発生したものです。加えて、ガスコンロを用いた加熱であれば、燃料(都市ガスであればメタン)の燃焼に伴って二酸化炭素や窒素酸化物、さらには微量ではありますが一酸化炭素も排出されます。さらに、加熱によって元々、食材に含まれていない成分が生成することがあります。この中に、筆者が関心を持つ多環芳香族炭化水素(PAHs)という成分があります。

 PAHsとは複数のベンゼン環が縮重合してできる物質の総称で、炭素を含む材料の不完全燃焼によって生成します。縮重合するベンゼン環の数や結合部位によって異なる物質になります。例えばベンゼン環が2つ合わさった物質は、防虫剤にも使われるナフタレンです。さらに3つ、4つ、5つ…とベンゼン環が結合した物質もあります。このPAHsに注目するのは理由があります。それは、PAHsの中には発がん性が疑われる成分が数多くあるということです。とりわけベンゼン環が5つ合わさったベンゾ[a]ピレンは発がん性が高いことが知られています。つまり、調理排気を吸入すると、一緒に発がん性物質も体内に取り込まれる可能性があるのです。

 実はPAHsは、大気科学の分野では数十年も前から研究の対象となってきた物質です。というのも、産業革命以降、石炭や石油などを大量に(不完全)燃焼させることで多くのPAHsが生成して、大気中に放出されてきた歴史があるからです。例えば、かつての大英帝国では煙突掃除が盛んに行われていました。煙突掃除の作業員は肺がんにかかる率が有意に高いことが確認されていますが、その一因がPAHsなのです。不完全燃焼により生じるすすには多くのPAHsが濃縮しており、これを吸入した作業員の肺には、発がん物質であるPAHsが蓄積されます。これが肺がんを引き起こしたと考えられます。

 昔は工場、あるいは自動車等から排出される排ガスは、特に処理をされないままに大気に放出されていました。その中にはPAHsをはじめとして、さまざまな汚染物質が含まれており、大気汚染の原因となりました。それゆえ、屋外大気中のPAHsについては多くの研究例があり、PAHsの生成メカニズムや環境動態等についてもかなりの知見があります。
 また、PAHsはタバコの煙にも多く含まれるため、喫煙と肺がんの関係に関する研究も数多くなされています。

 さて、食材の中にも炭素が含まれています。それゆえ、食材が不完全燃焼することでPAHsが生成しうるのです。既に食品科学の分野においても、食品中に含まれるPAHsについては研究がなされています。例えば、焼き魚の焦げた部分には、発がん性の高いベンゾ[a]ピレンをはじめとする多くのPAHsが含まれていることがわかっています。したがって、魚の焦げた部分を取り除くのは、言い換えれば発がん性のあるPAHsを除去していることになります。また、ソーセージなどの燻製には、PAHsが含まれていることも分かっています。これは木材チップを燻す際に発生するPAHsが食材表面に付着するためであると考えられます。

 一方、調理排気中のPAHsに関する研究は、あまり行われていませんでした。特に、我が国においては研究例が少ないのが現状です。数少ない中で一例を挙げますと、Rogge ら[1]は,都市大気中のPAHsの排出源の一つとして加熱調理に着目し,炭火焼から大量のPAHsが排出されることや、ガスコンロを用いた場合でもPAHsは生成することを明らかにしています。炭火焼をする機会は少ないでしょうが、ガスコンロは屋内で日常的に使われているので、私たちにとっても無関係ではありません。しかし、どのような調理をするとどれだけのPAHsが発生するのか、そしてそれによって私たちに健康被害が及ぶのか否か、といった点については、まだよくわかっていないことが多いのです。

 また、調理排気については、上記とは別の視点の興味深い論文が2003年のEnvironmental Health Perspectives誌に掲載されました。著者のLiら[2]は、台湾におけるPAHsの加熱調理及び移動発生源(自動車)からの排出量を推計した結果,移動発生源からの排出が年間13500 kg だったのに対して,加熱調理からの排出は8973 kg と評価されたと報告しました。言い換えれば、PAHsの主要な発生源である自動車排ガスと遜色ない量のPAHsが、調理排気として大気中に放出されていると評価されたわけです。すなわち、台所にある換気扇は、屋内から見れば調理排気を外に追い出す役割を果たしますが、屋外の側から見れば、かつての工場の煙突のように汚染ガスの発生源ということになるのです。では、わが国ではどうなのでしょうか。台湾と同じように、我が国においても調理排気は屋内のみならず屋外のPAHs濃度にも大きな影響を与えているのでしょうか。この点は今のところ、まったくわかっていません。

 以上のような背景のもと、筆者は調理排気中の化学成分、特にPAHsに関する研究を行っています。次回以降は、これまでの研究で明らかになった点を中心に、調理とPAHsとの関係をリスクの観点も含めてお話しする予定です。

[1] W. F. Rogge, L. M. Hildemann, M. A. Mazurek, G. R. Cass: Environ. Sci. Technol., 25, 6, 1112 (1991)
[2] C-T. Li, Y-C. Lin, W-J. Lee, P-J. Tsai: Environ. Health Perspect., 111, 483 (2003).

執筆者

田中 伸幸

東京工業大学大学院修了、電力中央研究所入所。主に化学物質の環境リスクについて研究している。料理は趣味で、週末は3食とも担当

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調理と化学物質、ナゾに迫る

私たちの身の回りにはさまざまな化学物質があり、調理に起因するものもあります。本コラムでは、主に調理排気に含まれる化学物質について、さまざまな視点から述べたいと考えています