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執筆者

田中 伸幸

東京工業大学大学院修了、電力中央研究所入所。主に化学物質の環境リスクについて研究している。料理は趣味で、週末は3食とも担当

調理と化学物質、ナゾに迫る

調理排気を吸い続けた場合のリスクは?

田中 伸幸

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 前回までのコラムで、調理排気には発がん性が懸念される多環芳香族炭化水素(PAHs)が含まれていること、そしてPAHsは脂質の多い食材を焼いたときに多く発生すること、さらに食材に直接、火が触れる調理ではPAHsの発生量が格段に多くなることを述べました。今回は、調理排気に晒されることによるリスクを定量的に考えてみましょう。

 本稿で対象とするリスクは発がんリスクに限定します。また、ここで扱うリスクとは「生涯リスク」というものです。これは、ある集団がある物質にある時間、晒され続けた場合、その集団において生涯の発がんリスク(確率)がどれだけ高まるのか、という値です。我が国では、1996年の環境庁(当時)中央環境審議会が、有害大気汚染物質については生涯リスクを10 -5(10万分の1)以下とすることを当面の目標にすると答申しています。これは、ある物質を吸入することによってがんを発症する人が、10万人に1人以下となるようにしなさい、という意味です。

 ところで、なぜ生涯リスクを10 -5としたのでしょうか? この点を議論した健康リスク総合専門委員会は、国際的状況や水質保全の分野ですでに採用されているリスクレベル、さらには自然災害等のリスクや関係者からの意見等を勘案すれば、10-6から10-5を目標とすることが考えられるとしています。つまり、大気汚染物質だけではなく、それ以外のリスクについても考慮して、大気汚染物質のリスク目標だけがその他のリスクと著しく乖離しないように目標値を設定したわけです。

 現在、がんは日本人の死因の第1位であり、亡くなる人の3割はがんが原因です。平成20年の統計では、総死亡者114万2467人に対して、がんによる死者は32万2849人に上ります。また、公益財団法人がん研究振興財団によれば、日本国民の全がん罹患率は人口10万人当たり328.2人です(2005年)。かように多くの人ががんにかかり、死亡する現実を考えると、生涯リスクが10-5(10万人に1人)というのは、ある意味で高い目標だと言えそうです。

 では早速、調理排気に含まれるPAHsを吸入し続けたときの生涯リスクを推計してみましょう。ある物質の吸入による発がんリスクRは次式により求められます。

R=C×U×t/24 …………(1)

 ここでCは曝露濃度[μg m-3]、Uは当該物質のユニットリスク[μg m-3]-1、tは1日当たりの曝露時間[h]を指します。ユニットリスクというのは、当該物質に単位濃度[1 μg m-3]で生涯、曝露されたときの生涯発がんリスクを指します。つまり(1)式の意味するところは、当該物質によるがんの発症確率が曝露量に比例するとの仮定に基づき、曝露量とリスクの大きさ、及び時間の積からリスクを算出するというものです(余談ながら、この考え方は「直線仮説(あるいは閾値なし仮説)」と呼ばれるものであり、がんの発症はこれに従うとされていますが、がんの発症にも閾値があるとの説もあり、まだ決着はついていません)。

 前回の記事で毒性当量のお話をした際に、各PAHsの毒性をベンゾ[a]ピレンの毒性に換算しましたが、今回も同じようにベンゾ[a]ピレンの毒性当量に換算して議論します。これまでの研究[1]でPAHsの発生量が比較的多いことがわかっているサンマと仔牛肉について、調理排気中の濃度((1)式のC)を計算すると、サンマ網焼きは0.41 ng-TEQ m-3、サンマ直火焼きは155 ng-TEQ m-3、仔牛肉網焼きで0.72 ng-TEQ m-3となります(1 ng-TEQ m-3は、1立方メートル中にTEQ換算で1ナノグラム、つまり10億分の1グラムのベンゾ[a]ピレンが存在するという意味です)。また、ベンゾ[a]ピレンのユニットリスク((1)式のU)は0.0011[μg m-3]-1です[2]。曝露時間((1)式のt)は、職業曝露を想定して1日6時間としましょう。

 これらを(1)式に代入すると、サンマ網焼き、サンマ直火焼き、仔牛網焼きの生涯発がんリスクはそれぞれ、1.1×10-7、4.3×10-5、2.0×10-7と算出されます。すなわち、これらの調理排気を毎日6時間、生涯吸い続けると、含有するPAHsにより、サンマ網焼きで1000万人に1.1人、サンマ直火焼きで10万人に4.3人、仔牛網焼きで1000万人に2.0人が、がんを発症すると推計されたわけです。

 ここで、本稿の最初に示した我が国の有害大気汚染物質に関する生涯リスク目標値(10-5)と比較すると、サンマ網焼き、仔牛網焼きでは問題なくクリアしていますが、サンマ直火焼きではこの目標値を少し上回っていることがわかります。ちなみにサンマ直火焼きのリスクレベルは、我が国における自動車交通量の多い道路の近傍(10-5~10-4程度)とほぼ同じレベルです。つまり、日頃から直火調理に従事する調理者は、長時間、自動車排ガスに曝露されているのと同程度のリスクを負っていると言えます。

 しかし、だからと言って直火調理はやめるべきだとは思いません。というのも、この推計は職業曝露を仮定しており、1日に6時間もの調理を生涯にわたって続けるという前提に基づいたものだからです。大多数の人は1日に6時間、しかも毎日直火調理をするなんてことはまずないでしょう。せいぜい1週間に1回程度ではないでしょうか。仮に1週間に1時間の直火調理を生涯続けたとしたら、生涯リスクは1.0×10-6となり、国の目標値を1桁下回ります。これならば、他のリスクと比較しても十分に低く、問題になるようなレベルではありません。直火で調理した方がおいしいものについては、あまりリスクを気にし過ぎないで調理すればよいのではないでしょうか。

 ただし、職業として日常的に直火調理をする調理者については、他の人よりリスクが高いことは間違いありません。とりわけ炭火焼のように、炭そのものからPAHsの発生が見込まれるものについては、どうしてもリスクは高めになります。とはいえ、繰り返しになりますが、そのリスクレベルは自動車交通量の多い道路の近傍程度です。あまり過敏にならず、現実的なリスク低減策を施せばよいと思います。リスクを下げるためには、換気をよくする、マスクを装着するなどが効果的です。これらの簡単な対策を施すことで、リスクはかなり下がると考えられます。

<参考文献>
[1]田中ほか:分析化学,61,2,77,2012.
[2]California Environmental Protection Agency: Technical Support Document for Describing Available Cancer Potency factors.(2005)

執筆者

田中 伸幸

東京工業大学大学院修了、電力中央研究所入所。主に化学物質の環境リスクについて研究している。料理は趣味で、週末は3食とも担当

調理と化学物質、ナゾに迫る

私たちの身の回りにはさまざまな化学物質があり、調理に起因するものもあります。本コラムでは、主に調理排気に含まれる化学物質について、さまざまな視点から述べたいと考えています