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環境化学者が見つめる伊勢神宮と日本の食|谷山 一郎

どんなコラム?
食や農業と密接な関係がある伊勢神宮。環境化学者の目で、二千年ものあいだ伊勢神宮に伝わる神事や施設を見つめ、日本人と食べ物のかかわりを探る
プロフィール
農業環境技術研究所に2014年3月まで勤務。その間、土壌保全、有害化学物質、地球温暖化の研究に携わる。現在は伊勢市在住

17 神田下種祭・・・神宮の田の種まきと日本の稲作技術の記憶

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2016年2月5日

(1) 下種祭の概要

写真1 下種祭の祭場。左の森が忌鍬山、左の集団は報道陣、手前は一般奉拝者(2015年4月6日)

写真1 下種祭の祭場。左の森が忌鍬山、左の集団は報道陣、手前は一般奉拝者(2015年4月6日)

 農作物の収穫を祝う神宮の行事である神嘗祭に向けた米の生産地である神田の神事として、水稲の種まきの下種祭(げしゅさい)、田植えの御田植初式(おたうえはじめしき)および抜穂祭(ぬいぼさい)と呼ばれる稲刈りの三つがありますが、今回は下種祭について紹介します。神宮の神田(しんでん)の概要については、13神宮神田をご覧ください。下種祭はかつて鍬山神事と呼ばれていましたが、1871年に中止された後、平安時代初期(804年)に編纂され神宮の儀式・行事について書かれた皇大神宮儀式帳などを参考に、1933年に再開されました。

写真2 真佐岐蔓を烏帽子につけて忌鍬山から下りてきた参列者。中央が童男(2015年4月6日)

写真2 真佐岐蔓を烏帽子につけて忌鍬山から下りてきた参列者。中央が童男(2015年4月6日)

 下種祭は4月上旬の9時前から開催されますが、日にちは決まっておらず、事前に神宮のブログで告知されます(2015年は4月6日)。まず、神宮神田の事務所前でお祓いを受けた参列者のうち大宮司以下が、神田の中央に設けられた神宮祭場に着席します(写真1)。残りの参列者は、神田の南側の忌鍬山(ゆくわやま)山麓で、入山と忌鍬(いみぐわ)と呼ばれる神事で用いられる鍬の柄の伐採の許可を山の神にお願いする山口祭(やまぐちさい)という神事をおこないます。その後、忌鍬山中に入り、鍬の柄を伐る木の根元で木本祭(このもとさい)をおこない、忌鍬を作ります。次いで、真佐岐蔓(まさきのかずら)と呼ばれるテイカカズラを烏帽子につけ、忌鍬を持って祭場に降りてきます(写真2)。この神事の中心になるのは童男(どうなん)と呼ばれる地元の男子中学生です。

 テイカカズラはキョウチクトウ科テイカカズラ属のつる性常緑低木で、乾燥した茎葉は解熱・強壮用の漢方薬として使われますが、毒性もあるので取り扱いには注意が必要です(三橋,1988)。和名は、後白河法皇の娘の式子内親王と恋愛関係にあった藤原定家が彼女を忘れられず、死後葛に生まれ変わって彼女の墓にからみついたという謡曲のストーリーに由来します。また、古事記では、アメノウズメノミコトがテイカカズラを髪飾りとして天岩戸の前で舞ったと伝えられています。

写真3 鍬打ちで作長が使用する風呂鍬。遠景は聖域であることを示す水田の四隅に立てられた飾り榊(2015年4月6日)

写真3 鍬打ちで作長が使用する風呂鍬。遠景は聖域であることを示す水田の四隅に立てられた飾り榊(2015年4月6日)

 その後、神職が忌鍬と忌種(ゆだね)と呼ばれる水稲種子の入った曲げ物で作られた桶と神饌を供え、祝詞を奏したのち、神職が黄色の狩衣姿の神田の責任者である作長に忌鍬を授けると、作長は作丁と呼ばれる作業員を率いて田に近づき、畦上で忌鍬を振り上げて三カ所で地を三度打つ鍬打ちをおこないます(写真3)。このとき、参列者は「あめ鍬や まさきのかつら笠にきて み田打ちまつる 春の宮びと」という御田歌を唄います。その意味は、「春になるとテイカカズラの飾りを頭につけて、神職が聖なる鍬で田を打つ」でしょうか。それから神職が作長に忌桶(いみおけ)に入った忌種を渡し、作丁が2015年はチヨニシキのもみを播いた(写真4)のち、作長が神職に報告し、神職はそれを検分して終了します。

写真4 忌種の播種(2015年4月6日)

写真4 忌種の播種(2015年4月6日)

(2)山口祭・木之本祭
 下種祭の最初におこなわれる山口祭と木之本祭は、皇大神宮儀式帳にも記載されている伝統ある神事ですが、山口祭は参観場所から遠く、木之本祭は山中でおこなわれるため、拝観することはできません。文献(神宮司廳)によれば、進行は以下の通りです。山口祭では、お祓いの後、人形や鏡などの形をした鉄製品の忌物(いみもの)と神饌を山の神に供え、神田を耕す鍬の柄となるイチイガシを伐採するために森に入山する許可と木を切るための許可を得る祝詞を奏上した後、忌物を地中に埋めます。次いで、童男が鎌で山道の草木を刈る動作をします。忌鍬山へ入山した後の木之本祭では、お祓いの後、ここでも忌物と神饌を供え、祝詞の中で忌鍬の柄にするイチイガシを伐採することを山の神に告げて許可を得、木の元と末の部分は神に返し、鍬の柄として利用する中間部分だけをくださるようにお願いします。その後、忌物を地中に埋めます。

 神宮では農作業を始めるに当たって、山の神に森の木を伐採する断りを入れるわけですが、稲作にとって森はどのような役割を果たしていたのでしょうか。水田に接する丘陵や低山の森いわゆる里山は、水田で使用する鍬や鋤などの農具、畦や水路の補強板や杭などの農業施設資材および腐葉土や苅敷などの肥料といった農業資材だけでなく、建材や薪などの生産材を得る大切な場所でした。また、神宮の用材を供給する宮域林における伐採と水流出の関係について観察し、水田の水源貯留や洪水緩和などの水源涵養機能を有する場所という認識もあったかもしれません。

 神宮の社殿を20年に一度建て替える式年遷宮の最初の神事が、遷宮の御用材の伐採と搬出の安全を祈る山口祭であり、次いで心の御柱(9外宮御敷地と白石を参照)の用材を伐採するにあたり、その木に座す神を祭る木之本祭がおこなわれます。このように、森の木を伐るという行為に関する神事が、神田と式年遷宮で共通しているのは興味深いことです。山口祭および木之本祭は木を伐るという行為に対して神の許しを乞うた上で、乱伐を戒め、森林の植物、水および土壌の適正な保全を図るという資源管理の考え方を象徴した神事なのかもしれません。

(3)風呂鍬
 ところで、鍬打ちの儀で神職が振り上げた忌鍬は、木製の台の刃先にU字型の鉄の刃を取り付けた風呂鍬と呼ばれるものです(写真3)。昔は鉄が貴重であったため、土に打ち込む部分だけ鉄のカバーをつけた鍬で、現在使われている台の部分がすべて鉄製の金鍬に代わる第二次大戦前まで使われていました。この風呂鍬という名称は、台が木製のため、風呂を作るのと同じ職人がこの鍬を作る仕事をしていたことからきています。

 鍬には、鍬をふりかざして土中に打ち込み、田畑の荒起こしに用いられる打ち鍬と、土を水平に移動させ畦つくりや畝立てに用いられる引き鍬がありますが、下種祭に用いられる鍬は、柄の角度は直角に近く、刃がはめ込んである木製の風呂が厚く、刃先が丸い丸先鍬であることから打ち鍬のようです。実物は神宮徴古館の農業館に陳列されています。

 弥生時代は刃も木製であった木鍬が主流で、鋭い刃をもたないため、地面に打ち込む打ち鍬には幅の狭い狭鍬、土を引き寄せる引き鍬には幅の広い広鍬など、機能に応じてさまざまな形の鍬がありました。方形の鉄板を半分に折り曲げて木の台に取り付けた方形版刃先は弥生時代中期には存在しましたが、数は少なく、耕作ではなく、開墾や土木などで固い土を掘り起こすのに用いられ、首長などが独占していたと考えられています(上野,2000)。その後、5世紀に風呂と呼ばれる台にU字形鉄製刃先をはめ込むための溝を鉄板に刻むか、二枚の板を鍛接するという高度な金属加工技術が大陸から伝わり、風呂鍬が古墳から出土し始め、1500年近く使用されました(飯沼ら,1976)。

写真5 五月人形の兜の鍬形(2015年5月4日)

写真5 五月人形の兜の鍬形(2015年5月4日)

 ちなみに、兜の鍬形とは、平安時代以降の武将が戦闘の際に被っていた兜についている装飾品です(写真5)。鍬といえば、長方形の鉄の板に木の柄を差し込んだ金鍬しかイメージしていなかった私には、最初はなぜ「鍬形」と呼ぶのか理解できませんでした。後に、風呂鍬を知るに及び、U字形刃先に似ていることに由来することに納得しました。クワガタムシも、虫全体の形状が風呂鍬のU字形刃先に似ていることからきているようです。

(4)播種の歴史
 下種祭の種まきは、奈良・平安時代の技術を反映した儀式を参考としているとのことですが、儀式が、直播(ちょくはん)と呼ばれる、種子を播いた後田植えをおこなわないでそのままの状態で育てる方法または田植えを伴った栽培法を象徴しているなどいろいろな説があります。皇大神宮儀式帳には、田植えに関する明確な行事が記載されていないため、その頃の種まきは直播であったという説があります(松尾,1994)。しかし、同時期に外宮の行事について書かれた「止由気宮(とよけぐう)儀式帳」には田植えの儀式に関する記載があり、田植えはあったともいわれています(小島,1999)。

 縄文時代晩期からの日本の稲作は直播から始まりましたが、弥生時代後期の水田遺構からは田植えをおこなっていた証拠が発見されています。直播では出芽・苗立ちが安定せず、雑草が繁茂しやすく、収量も安定しないため、奈良時代から田植えによる移植栽培が本格的に始まり、平安時代に入って一般化して以来、現在まで続いています(松山,2004)。

 ところが、古代の直播は散播(さんぱ)と呼ばれるばら播きではなく、堀り棒で水田面にくぼみをつけ、そこに種籾を数粒ずつ埋め込んでいく点播(てんぱ)という方法がとられました(土肥,2003)。確かに、整地が十分ではなく、大小の土塊が存在する本田では、点播は散播よりも発芽率が高く、種籾の無駄を減らせます。また、忌鍬の柄は、もともとは堀り棒に由来する聖なる木を象徴としているとする説(小島,1999)もあり、直播から田植えへの変遷を示しているともとれます。現在の下種祭では、田植えを前提として、よく整地された苗床に種子を散播しています(写真4)。

 このように神田の神事は、鍬や播種法などの日本の稲作技術の変遷に思いを巡らす機会を与えてくれます。

(5)ガイド
神宮神田下種祭会場:伊勢市楠部町
列車:近鉄五十鈴川駅下車、東1.5km、徒歩20分
バス:近鉄五十鈴川駅から「おかげバス」四郷小学校下車、徒歩5分
自家用車:伊勢鳥羽自動車道楠部インターチェンジから南へ600m

参考資料:
土肥鑑高(2001)米の日本史,p1-226,雄山閣
飯沼二郎ら(1976)農具,ものと人間の文化史19,p1-206,法政大学出版局
神宮司廳(発行年不明)神宮神田概要・神宮神田祭儀制定概要,p1-24
小島瓔禮(1999)太陽と稲の神殿―伊勢神宮の稲作儀礼,p1-362,白水社
松尾 光(1994)文献史料にみる古代の稲作,武光誠ら編,古代日本の稲作,p135-176,雄山閣
松山良三(2004)日本農業史,p1-527,新風舎
三橋 博監修(1988)原色牧野和漢薬草大圖鑑,p1-782,北隆館
上野真人(2000)農具の変革,佐野真ら編,環境と食料生産,p219-242,小学館

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