科学的根拠に基づく食情報を提供する消費者団体

執筆者

谷山 一郎

農業環境技術研究所に2014年3月まで勤務。その間、土壌保全、有害化学物質、地球温暖化の研究に携わる。現在は伊勢市在住

環境化学者が見つめる伊勢神宮と日本の食

19 カツオ節・・・モルディブからやってきた? 神饌

谷山 一郎

キーワード:

(1) 神饌としてのカツオ節
 神宮の常典御饌(5 常典御饌参照)では朝夕の毎回、そして他の重要な神饌でも必ず添えられるのが乾鰹(ひがつお)と呼ばれるカツオ節です。神宮では年間約6,700本ものカツオ節が用いられているそうです(矢野,2013)。わが家に二つある神棚(一つは内宮のほか十数宮社のお札が入った札宮と先祖を祀る御霊舎)では、真空パックに入った削り節を水、酒や米とともに供えています。

 神宮の神饌は神様がそのまま召し上がれるようにした熟饌であり、神饌として供えられたこの堅いカツオ節をどのようにして食べることを想定しているのか最初は疑問でした。調べたところ、室町時代後期に製造されるようになったカツオ節以前には、生カツオを細切りにして干しただけの堅魚(かつお)または煮てから日干しした煮堅魚(にがつお)が食材や神饌として供されていました。この堅魚や煮堅魚も堅く、小刀で削ったり刻んだり、砕いたりして、おかずまたは汁物の調味料などとして用いられていたようです(宮下,2000)。

写真1 ネコにカツオ節。志摩市波切で生産された本枯節の背節(上)と腹節(下) (2016年2月18日)

写真1 ネコにカツオ節。志摩市波切で生産された本枯節の背節(上)と腹節(下) (2016年2月18日)

 その後継のカツオ節は、生カツオを三枚におろした後、さらに血合の部分を境に背節または雄節と呼ばれる背の部分および腹節(雌節)と呼ばれる腹の部分に分けて作られる節が本節で、その後カビつけをして仕上げたものが本枯節です(写真1)。それよりも小ぶりのカツオは背と腹を分けない亀節になります。本節と亀節は大きさの違いだけで味や香りは変らないそうです。背節は腹節に比べ脂肪分が少ないのできれいに削れますが、脂肪分の多い腹節は削ったときに粉になりやすいものの、だしにコクがでるとのことです。しかし、私にはそこまでの違いは分かりませんでした。

写真2 伊勢神宮式年遷宮記念せんぐう館(2016年2月16日)

写真2 伊勢神宮式年遷宮記念せんぐう館(2016年2月16日)

 さて、ここでクイズを一つ。神宮関係の資料が展示されている「せんぐう館」(写真2)の第1展示室には、常典御饌のレプリカが陳列されていますが、この見本は朝御饌でしょうか、夕御饌でしょうか。ヒントは、神宮では慣例として常典御饌において朝は背節を、夕は腹節を供えていることです(矢野,2013)。正解はせんぐう館の展示物で確認してみて下さい。

(2)カツオ節の歴史
 カツオ自体は古くから日本人の食用となっており、縄文時代の遺跡からカツオの骨が出土しています。5世紀には、漁獲地から消費地へ運搬するため保存がきく堅魚が作られていたとみられ、干すとかたくなるので、カタウオ、略してカツオとなったといわれています。堅魚や煮堅魚は平安時代の法令集である延喜式にも重要な貢納品と書かれ、神饌としても重視されました。また、煮堅魚の煮汁を煮詰め、黒褐色のアメ状の液体である堅魚煎汁(かつおのいろり)は、吸い物である羹(あつもの)の調味料として使われてきました。律令時代の税である租庸調のうち、調は各地の産物を納めさせるもので、アワビなどと並んで堅魚や堅魚煎汁などがその中に含まれていました。しかし、室町時代後期になって、カツオ節が出現するころから、姿を消しました。

 昔から、カツオやサバなどの青魚は、「当たる」、「酔う」といって、少しでも古くなると嫌われました。これは、アミノ酸の一種のヒスチジンを多く含むため、時間がたつと微生物によってヒスタミンに変わり、魚を食べた人がアレルギー様中毒を起こすことによります。このため、カツオの加工品が工夫されましたが、堅魚や煮堅魚もかびやすく、長時間の輸送・保存が困難でした。

 これに対し、カツオ節は煮てから乾かすだけでなく、燻(いぶ)すという操作を加えたのち、カビを付着させてさらに水分を除くため、保存性が格段にあがります。この燻すという工程はそれまでは日本になく、太平洋上の島国モルディブでおこなわれていたカツオの燻乾法が東南アジアを経由して、室町時代に日本に伝わったとする説があります(宮下,2000)。カツオブシの語源も、カツオを燻したカツオイブシが原型ともいわれています。

 カツオを燻すと、燃料の煙中のフェノール類の作用により芳香が付与され、各種酸類の作用により酸化防止効果が現れます。しかし、それだけでは生臭みは消えず、保存中に悪性カビにより腐敗する恐れもあるため、Aspergillus glaucus などの緑色の麹カビを付けます。これらのカビは。脂肪分を分解して生臭みをとり、香味をよくし、タンパク質を分解してうま味を増す効果を持っているとされています。

 江戸時代中期からカビ付け法が取り入れられ、ほぼ現在に近い製品が西日本で作られるようになると産地は全国に広がり、消費も普及していきました。日本人は格付け好きで、江戸時代には相撲番付に準じたさまざまな番付が作られましたが、カツオ節の「諸国鰹節番附表」(1822年)には、行司として現在の志摩市波切、南伊勢町阿曽などで生産されたカツオ節が記載されています。今では波切だけでカツオ節は作られていますが、番付表の行司役は、大関など三役に準じる立場で、評判または品質が高かったことが分かります。現代の波切産のカツオ節は、神宮近くの土産物店で購入できますが、店頭に並んでいるのは背節ばかりで、腹節は注文する必要があります。

 カツオ節は良質なタンパク質の塊で、含量は77%に達しています。必須アミノ酸をバランスよく備え、B群ビタミンを豊富に含んでいます。また、日本の軽症高血圧患者に、カツオ節を酵素のサーモリシンで分解して得られるカツオ節オリゴペプチドを3g/日を配合したみそ汁を6週間の摂取させたところ有意な血圧降下作用を示しました。このため、カツオ節オリゴペプチドを関与成分とし、「血圧が高めの人に適する」という表示が許可された特定保健用食品があります(国立栄養・健康研究所,2007)。それらの栄養や機能性のためか、武士の戦時行動中の食糧である兵糧の必需品として取り扱われるとともに、カツオ節は「勝男武士」に通じる縁起物として武家の祝儀に用いられました。

(3) 鰹木

写真3 外宮新御敷地前の参道から見た正殿屋根上の鰹木(2014年10月4日)

写真3 外宮新御敷地前の参道から見た正殿屋根上の鰹木(2014年10月4日)

 神社の屋根の上に棟に直角になるように何本か平行して並べた円筒形の部材が鰹木(かつおぎ)または堅魚木です。鰹木の語源については、形がカツオを干したものに似ているからとも、堅魚または煮堅魚を屋根で干していた姿を象徴したものともいわれています。本来は、棟の押さえを目的とした補強材だったようですが、その後飾りとして用いられてきました。

 神宮の内宮正殿の屋根には10本の鰹木があり、その他の内宮と関係する建物の屋根にはそれよりも少ない偶数の鰹木が乗っています。それに対して外宮正殿の屋根には9本の鰹木が据えられ(写真3)、その他の外宮関係の社殿には奇数の鰹木があります。神宮以外の神社では、神宮正殿の鰹木よりも少ない本数で、女神は偶数、男神は奇数の鰹木を飾ることになっているようです。このため、豊受大御神は男であるという珍説もあります。

写真4 屋根に鰹木を載せた今城塚古墳出土の家型埴輪(2015年12月9日)

写真4 屋根に鰹木を載せた今城塚古墳出土の家型埴輪(2015年12月9日)

 鰹木で有名なのは、雄略天皇が山の上から鰹木を上げている豪族の家を見て、その家を焼かせたという古事記の話です。このことは、鰹木で棟の上を飾るのは天皇クラスの象徴的な行為であり、権力を侵害した豪族を罰した例として上げられます。

 継体天皇の陵墓とされる大阪府高槻市の今城塚古墳から、そのスケールははるかに小さいものの中国の始皇帝陵の兵馬俑にも似た200点以上の形象埴輪が出土しています(今城塚古代歴史館,2014)。その中に、古代の住居や祭殿などをかたどった家形埴輪があり、掘っ立て柱の高床で棟持ち柱を備え、屋根は入母屋造であることが神宮の社殿と異なりますが、9本の鰹木や千木を載せた祭殿と思われる埴輪が出土しています(写真4)。しかし、天皇陵以外の群集墳の豪族クラスの墓の主でも、生前に鰹木を載せた家に住んでいたことを示す埴輪が出土していることから、今後、この鰹木の名前の由来や意味、そして歴史の解明が期待されます。

(4)てこね寿司
 神宮周辺の食堂前に立てられたのぼりに「てこね寿司」の文字をよく見かけます。これは南伊勢や志摩地方の漁師が、すし飯を持参して漁に出て、昼食時に漁獲したカツオの切り身を醤油に漬けて味付けし、手で飯とかきまぜて食べたことに由来する食事であり名前といわれています(大川,1986)。

写真5 市販のカツオの手こね寿司弁当(2016年2月8日)

写真5 市販のカツオの手こね寿司弁当(2016年2月8日)

 材料は、カツオだけでなく、マグロ、アジやボラなども使われ、すし飯の具としてシイタケやニンジン、卵焼きなどが用いられ、その上にショウガと刻み海苔をふりかけることがあります(写真5)。魚は薄く切り、醤油に砂糖を少し入れて煮込み、冷ましたのち、この煮汁に切り身を短時間漬けます。すし飯には酢や砂糖、塩を少々入れる場合もあります。この手こね寿司は、志摩から南伊勢の沿岸地方の冠婚葬祭に欠くことができないもので、その地方で用意できる材料で、人数にも臨機応変に対応でき、作りやすいといった理由で伝統料理として生き残ったのでしょう。

 日本考古学の権威で、2013年に亡くなった森浩一同志社大学名誉教授は食通でもあり、食べものと古代史の関係を語った著書のカツオの章で、「たしか手こね寿司といった。これは産地でしか味わえそうもない。いつかはありつこう」と書いています(森,1995)。その後、手こね寿司を食べたのでしょうか。その感想はどのようなものだったのでしょうか。

(5)ガイド
せんぐう館:外宮敷地内
列車・バス:近鉄・JR伊勢市駅下車徒歩5分
自家用車:伊勢自動車道 伊勢西インターチェンジから北へ2km
今城塚古代歴史館:大阪府高槻市郡家新町48-8
列車・バス:JR東海道本線摂津富田下車 高槻市営バス奈佐原行き「今城塚古墳前」下車すぐ
自家用車:名神高速道路茨木インターチェンジから東へ4km

参考資料:
今城塚古代歴史館(2014)大王の儀礼の場―今城塚古墳にみる家・門・塀の埴輪,p1-14,今城塚古代歴史館
国立栄養・健康研究所(2007)かつお節オリゴペプチド,健康食品の素材情報データベース
宮下 章(2000)鰹節,ものと人間の文化史97,p1-372,法政大学出版局
森 浩一(1995)食の体験文化史,p1-238,中央公論社
大川吉崇(1986)食べもの三国誌,p1-237,新人物往来社
矢野憲一(2013)伊勢神宮の衣食住,p1-252,角川学芸出版

執筆者

谷山 一郎

農業環境技術研究所に2014年3月まで勤務。その間、土壌保全、有害化学物質、地球温暖化の研究に携わる。現在は伊勢市在住

環境化学者が見つめる伊勢神宮と日本の食

食や農業と密接な関係がある伊勢神宮。環境化学者の目で、二千年ものあいだ伊勢神宮に伝わる神事や施設を見つめ、日本人と食べ物のかかわりを探る