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執筆者

谷山 一郎

農業環境技術研究所に2014年3月まで勤務。その間、土壌保全、有害化学物質、地球温暖化の研究に携わる。現在は伊勢市在住

環境化学者が見つめる伊勢神宮と日本の食

20 モチ<1>・・・モチモチ食品が好きな日本人の行事食

谷山 一郎

キーワード:

(1) 神饌のモチ

 モチ(餅)とは、狭義ではモチ(糯)米を吸水させて蒸し、臼と杵で搗いて、粘りを出した食品と定義されます。しかし、広義においてはウルチ米を搗いた五平餅、アワなど雑穀のモチ品種でつくった粟餅、モチ米の穀粒を粉にしたものを水で練って熱を加えた桜餅などさまざまなモチがあります。モチは、そのなめらかで軟らかな感触と純白な色が清浄なものとして、古くから神への供え物とされたほか、正月の鏡餅や雑煮またはひな祭りの菱餅などのように、特別な日(ハレ)の食物として重要視されてきました。

写真1 神宮徴古館(2015年10月1日)

写真1 神宮徴古館(2015年10月1日)

 神宮の神饌のモチである御餅(おんもち)も、神の日常食である1日2度の常典御饌(4常典御饌参照)で供されることはなく、10月の神嘗祭および6月と12月の月次祭の由貴大御饌やその他の神事の特別な御饌で用意されます。神宮神田(13神宮神田参照)で栽培されたモチ米を外宮や内宮の忌火屋殿において蒸したあと、杵と臼で搗き、約1合(180mL)に小切りして木型に入れて小判形に型どりします(矢野,2013)。

 神宮徴古館(写真1)に展示されている神嘗祭の内宮の由貴大御饌のレプリカを見ると、5枚を和紙でひとくくりにして、1皿に2組合計10枚をアカメガシワの葉の上に盛り、それを6寸土器3皿分、合計3升(5.4L)分もの御餅が供えられているのが分かります。別宮・摂社の分まで含めると800枚を作ることもあるとのことです。その他の中小の神事では、御餅を2枚と2枚を並べた上に1枚を重ねた5枚を和紙でくくって4寸土器の上に載せた計5合の御餅が用いられます。このモチは、「わりに粗そうに見えたけど、おいしそうやった(辻ら,1985)」ということなので、神宮の神様はよく搗いた延びのよいモチではなく、歯切れのよいモチが好みなのかも知れません。もっとも、800枚分を人力で徹底的に搗くのは大変な作業ではあります。

写真2 伊勢市観光協会による外宮勾玉池奉納舞台での神宮参拝者配布用のモチ搗き(2015年12月25日)

写真2 伊勢市観光協会による外宮勾玉池奉納舞台での神宮参拝者配布用のモチ搗き(2015年12月25日)

 この他に神宮の御饌のモチとして、江戸時代までは3月3日の桃花御饌での新草(はつくさ)餅や5月5日の菖蒲御饌では粽(ちまき)などが作られましたが、今ではなくなっています。

写真3 外宮前広場の大かがり火でのもち焼き(2015年12月31日)

写真3 外宮前広場の大かがり火でのもち焼き(2015年12月31日)

 また、伊勢市観光協会は、毎年、外宮や内宮で年越しの参拝客に配るモチを12月末に搗きます(写真2)。立て烏帽子・直垂姿の内宮近くにある猿田彦神社の宮司が、外宮勾玉池奉納舞台でセレモニーを行い、当日搗きたての丸餅を配布するとともに、大晦日の23時頃に外宮表参道火除橋前広場、内宮酒だる装飾前で配ります。このモチをどんど火と呼ばれる外宮・内宮前の広場で焚かれた大かがり火で焼いて食べると、一年間無病息災で過ごせるともいわれ、どんど火にかざすための専用の餅網を用意する人もいます(写真3)。本来は1月14日の夜または小正月の1月15日の朝、その年飾った門松や注連飾りなどを持ち寄って焼き、その火で焼いたモチを食べたり、灰を持ち帰り自宅の周囲にまくと病を除くと言われるどんど焼きが神宮では行われないため、どんど火はその代わりでしょう。

(2)モチの物理化学

 モチの品質は、色が白く、肌がきめ細かく、香味に優れ、硬さが適当で、コシ(弾性)が強く、のび(ひき・粘性)があるものが最良とされます(農文協,2012)。この品質は、モチ米の糖質が多く、その他のタンパク質、脂質、灰分や繊維などが少ないものが優れています。タンパク質含量は、品種によって異なり、日本酒の大吟醸のように精米歩留まりが低い(高精白化)ほど、水稲と陸稲では水稲の方が、栽培条件では低窒素施肥で、つまり栄養価が低いほどモチとしては高品質となります。

 また、モチのモチモチ感は、モチ米の貯蔵澱粉の性状に依存しています。そもそも澱粉は糖のグルコースが数多く結合した高分子で、分子構造が樹枝状に枝分かれしているアミロペクチンと長鎖状に1本に繋がっているアミロースに分けられます。ウルチ米の澱粉は約80%のアミロペクチンと20%のアミロースからなりますが、モチ米の澱粉はアミロペクチンだけです。生のモチ米の澱粉の枝分かれしているアミロペクチン分子は規則的な配列をしており、いわゆるベータ澱粉といわれる状態にあります。しかし、搗きたての柔らかいモチの澱粉分子は不規則に並んでいるアルファ澱粉の状態で、これを食べると胃腸内で消化液がゆきわたり、よく消化されます。よくモチは腹持ちがよいと言われますが、これは食べ過ぎることが原因という説もあります。ところがモチを放置しておくと、澱粉分子が再び規則的に並んでベータ澱粉の状態に戻ってしまい、固くなり、消化されにくくなります。この放置されたモチを薄く切って乾かしたのち、焼いたり油で揚げ、いわゆるかき餅や揚げ餅にすると、一旦はアルファ化した澱粉はベータ化しないので、いつまでもおいしく食べることができます。

(3)モチの歴史

写真4 石造りの鏡餅が飾られた小野神社(2015年12月18日)

写真4 石造りの鏡餅が飾られた小野神社(2015年12月18日)

 滋賀県大津市小野にある小野神社はモチおよび菓子の神様である米餅搗大使主命(たがねつきおおおみのみこと)を祭神とし、末社に聖徳太子の時代の遣隋使小野妹子を祀る小野妹子神社や摂社に花札の絵柄で有名な書聖小野道風を祀る小野道風神社があります。小野神社の社殿は神明造りで、鰹木は5本、千木は内削ぎで風穴は1つ半と内宮と外宮の様式が混合した構造となっていました(写真4)。

 平安時代に編さんされた新撰姓氏録によれば、米餅搗大使主命は、歴史上西暦400年頃在位した推定される応神天皇にモチの元祖の餈(しとぎ)を献納したため米餅搗(たがねつき)の姓を賜ったといわれています。餈とは、モチ米を水に浸しておき、生のまま木臼で1時間以上搗き固めると粘りが出て普通のモチのようになり、藁づとに納豆のように包んだものです。「たがね」とは「しとぎ」の古語と考えられています。

写真5 京都・賀茂御祖神社・賀茂祭神饌の糫餅のレプリカ(佐川記念神道博物館:2016年2月23日)

写真5 京都・賀茂御祖神社・賀茂祭神饌の糫餅のレプリカ(佐川記念神道博物館:2016年2月23日)

 次の記録は古事記で、倭建命(やまとたけるのみこと)が今の三重県四日市市に着いたとき「私の足は三重に曲げた餅のように腫れ曲がって、ひどく疲れてしまった」と言ったので、そこを三重と名付け、今の三重県名の由来となったといわれています(萩原ら,1973)。この曲げた餅を勾餅または糫餅と書いて「まがり」と読みました。「まがり」とは紐状にした生地をとぐろ状に巻いて油で揚げた揚げ餅です。古事記の原文には「勾」のみで餅とは書かれていませんが、本居宣長は古事記伝の中でこれを勾餅と解釈しました。

 倭建命が活躍したとされる弥生時代はともかく、古事記が編さんされた飛鳥・奈良時代には、小野妹子ら遣隋使や遣唐使などによって中国からもたらされた菓餅(かへい)と呼ばれる米粉や小麦粉を練って油で揚げた餅の中の1つの糫餅が、宮廷の料理や神饌(写真5)として作られていました(亀井,2016)。したがって、勾は勾餅であった可能性はあります。とすれば、小野神社は米餅搗大使主命と小野妹子という二人の餅に関係する氏族を祀っていることになります。

 その後、平安時代の法令集である延喜式において、天皇の即位を祝う大嘗祭の神饌品目の中に、搗き餅や勾餅などのモチ類の記述があります。また、当時、朝廷では元日から3日間、長寿延命を願ってモチを食べる「歯固め」の儀式があり、鏡餅が天皇の御前に供えられました。源氏物語にも、「歯固めの祝ひして、餅鏡(もちいかがみ)さへ取り寄せて」と記載されています。このように、モチはさまざまな行事のときに、作られ食べられてきました。しかし、それまでモチを搗くのに用いられていたのは月のウサギが搗くような竪杵(たてきね)でしたが、江戸時代初期に現在のようなハンマー型の横杵が発明されると、竪杵よりも容易にきめ細やかなモチを搗くことができたため、モチの種類が急速に増えるとともに、いつでもモチが食べられるようになり、菓子としても普及するようになりました。

(4)モチ米のふるさと

図1 モチ文化とモチ性穀類の分布図(阪本,1989を改変,Google Map)

図1 モチ文化とモチ性穀類の分布図(阪本,1989を改変,Google Map)

 モチの材料であるモチ米とウルチ米は縄文時代後期どちらが日本に先に入ってきたのか、それとも同時に入ってきたのかはまだ結論が出ていないようです。しかし、モチ米とそれ以外のヒエやアワなどのモチ性穀類も含めてその起源は、ミャンマー、タイ、ラオスおよび中国南部などのインドシナ半島の山岳部にあることは確かとされています(図1)。この地域では、農耕以前からヤマノイモやサトイモなどのイモ類に含まれる粘性の高いデンプンを基調とした食品への嗜好が強く、作物を栽培するようになると、この嗜好性が粘性の高いモチ性穀類を、そうでないウルチ性品種の中から選び出して、新しい普及品種として利用するようになったと考えられています(阪本,1989)。その後、このモチを用いた儀礼を含むモチ文化圏は、中国や韓国など東に拡大し、日本がその端に位置するようになりました。この日本人のモチモチ嗜好はウルチ米でもコシヒカリの粘りに対する愛着となって表れているようです。

 今から30年ほど前、私はモチ文化起源地域内にある東北タイのコンケンに滞在したことがあります。ここではモチ米が常食で、モチ菓子も数多くありました。私も毎日蒸したモチ米(おこわ)を手づかみで籐製の籠から取り出し、片手で一口大にまとめて、ガイヤーンと呼ばれる焼き鳥やパパイヤのサラダであるソムタムをおかずに頬張っていました。いわゆるタイ米と呼ばれるタイ中央平原で生産される長粒のパサパサしたウルチ米よりもよほど好みに合い、モチモチ嗜好の故郷に浸りきった日々を送りました。

(5)ガイド

神宮徴古館:伊勢市神田久志本町1754-1
バス:近鉄宇治山田駅・JR伊勢市駅から、徴古館経由外宮内宮循環バスで徴古館前下車 すぐ
自家用車:伊勢自動車道伊勢インターから御幸道路経由北約1km

小野神社:大津市小野1961
列車:JR湖西線小野下車北1.5km徒歩20分
自家用車:湖西バイパス和迩インター下車南2km3分

皇學館大学佐川記念神道博物館:伊勢市神田久志本町1704
バス:近鉄宇治山田駅前、JR伊勢市駅前より三交バス「外宮内宮循環」徴古館前下車徒歩2分。

参考資料:
萩原浅男ら(1973)古事記 上代歌謡,p1-513,日本古典文学全集1,小学館
亀井千歩子(2016)47都道府県和菓子/郷土菓子百科,p1-348,丸善出版
農文協編(2012)もち,米粉,米粉パン,すし,加工米飯,澱粉,地域食材大百科6,p1-408,農文協
阪本寧男(1989)モチの文化誌,中公新書947,p1-175,中央公論社
辻 嘉一ら(1985)神々の饗,p1-222,小学館
渡部忠世ら(1998)もち(糯・餅),ものと人間の文化史89,p1-379,法政大学出版局
矢野憲一(2013)伊勢神宮の衣食住,p1-252,角川学芸出版

執筆者

谷山 一郎

農業環境技術研究所に2014年3月まで勤務。その間、土壌保全、有害化学物質、地球温暖化の研究に携わる。現在は伊勢市在住

環境化学者が見つめる伊勢神宮と日本の食

食や農業と密接な関係がある伊勢神宮。環境化学者の目で、二千年ものあいだ伊勢神宮に伝わる神事や施設を見つめ、日本人と食べ物のかかわりを探る