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執筆者

谷山 一郎

農業環境技術研究所に2014年3月まで勤務。その間、土壌保全、有害化学物質、地球温暖化の研究に携わる。現在は伊勢市在住

環境化学者が見つめる伊勢神宮と日本の食

28 抜穂祭・・・神宮神田の稲刈り神事とイネ収穫法の歴史

谷山 一郎

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写真1 神宮神田・抜穂祭における事務所前での参列者のお祓い(2016年9月3日)

写真1 神宮神田・抜穂祭における事務所前での参列者のお祓い(2016年9月3日)

(1) 抜穂祭の概要

写真2 神田の抜穂祭祭場(2016年9月3日)

写真2 神田の抜穂祭祭場(2016年9月3日)

 抜穂祭(ぬいぼさい)とは、神宮の農作物の収穫を祝う行事である神嘗祭に向けた神宮神田(第13回神宮神田を参照)の稲刈りの神事です。

 抜穂祭の日程は水稲の生育状況を見て事前に決定され、9月上旬の10時頃から開催されます(2016年は9月3日)。神宮神田の事務所前で神職や作丁と呼ばれる作業員、地元楠部町の神田管理の協力者がお祓いを受け(写真1)、神田の中央に設けられた祭場に着席します(写真2)。次いで、餅、伊勢エビ、タイなどの神饌を供え、神職が稲の収穫を感謝する祝詞を奏上します。

写真3 忌鎌による根刈り(2016年9月3日)

写真3 忌鎌による根刈り(2016年9月3日)

 その後、神職が神宮神田の農場長にあたる黄色の狩衣姿の作長に忌鎌(いみがま)2丁を渡し、さらに忌鎌を手にした2人の作丁が田へ降りて、忌鎌で根刈りをします(写真3)。刈り取った穂や茎葉を含む稈をムシロの上に広げて、10人の作丁が穂を手で抜き取ります。抜いた穂は束にして麻苧(あさお)と呼ばれる麻ひもで結び、2束を折敷(おしき)に載せてシイの細い枝を並べた台の楉案(しもとあん)に置きます(写真4)。神職が抜穂を検分して、辛櫃に納めて運び出されて抜穂祭は終了します。

写真4 楉案上の抜穂(2016年9月3日)

写真4 楉案上の抜穂(2016年9月3日)

 また、抜穂祭とは別に奉仕の人々によって、抜穂258束が作られ、数日間神田内で自然乾燥させた後、内宮では150束が正宮から荒祭宮への参道の途中にある御稲御倉(みしねのみくら)に、外宮では108束が忌火屋殿(いみびやでん)に貯蔵されます。

 この稲束は、神嘗祭、6月と12月の月次祭で、内宮では50束ずつ、外宮では36束ずつ、取り出されて、臼殿で籾すり具(土臼)を用いて脱穀・精米の後、飯、餅や酒に調製し、御饌としてお供えします(矢野,2008)。

 

(2) 稲刈り用の道具

 抜穂祭では、鉄鎌で根刈りした後、穂を抜いていますが、実際の農業の歴史上ではどうしたのでしょうか。

写真5 弥生時代の石包丁による穂刈りの模型(大阪府立弥生文化博物館,2016年11月9日)

写真5 弥生時代の石包丁による穂刈りの模型(大阪府立弥生文化博物館,2016年11月9日)

 縄文時代晩期に大陸から北九州に定着した水田稲作の稲刈りの方法として、当初は稲穂だけを収穫する、摘み穂または抜き穂と呼ばれる方法でした。当時のイネは、湿田では直播と呼ばれる、種を直接本田に蒔く方法であったため発芽・生育がそろいませんでした。また、すでに導入されていた田植えであっても、虫害、干害や冷害などのリスクを避けるため、一枚の田で異なる種を植え付けるので穂の出る時期や背丈が不揃いであり、雑草も多いことから、熟した穂から順に刈り取っていきました(写真5)。

写真6 弥生時代の磨製(右)と打製(左)の石包丁(下関市立考古学博物館,2016年11月10日)

写真6 弥生時代の磨製(右)と打製(左)の石包丁(下関市立考古学博物館,2016年11月10日)

 その穂を刈る道具として、調理用の包丁と形状が似ていたため石包丁または石庖丁と名付けられた、大陸由来の石製の穂摘具が用いられました。石包丁は、手の中に収まる程度の半円形の片側を鋭利にした磨製または打製の平たい鎌の一種で、刃の反対側の中央背部にある穴に通した紐に指をかけて固定し、イネの穂首を切断しました(写真6)。

 弥生時代後期には、石包丁に代わる鉄製の穂摘具として、全長10cm以下、幅2cm以下の手鎌(てがま)または摘鎌(つみがま)と呼ばれる小さな鉄鎌が北部九州で普及し、古墳時代に盛んに使用されました。このような鉄の鎌は大陸には類似品がないことから、おそらく日本で考え出されたものと思われます。しかし、水稲を根元から刈り取ることができれば、穂刈りのように何度も収穫作業をする必要はなくなり、刈り取ったワラを俵や縄、ムシロなどに利用できます。それにはまず、能率の高い収穫具が必要となります。

写真7 弥生時代の鉄鎌(左上)、磨製(左下)と打製(右)の石鎌(大阪府立弥生文化博物館,2016年11月9日)

写真7 弥生時代の鉄鎌(左上)、磨製(左下)と打製(右)の石鎌(大阪府立弥生文化博物館,2016年11月9日)

 一方、弥生時代中期には鉄鎌(刈鎌)と呼ばれる長さ18cm以上の曲刃の大型鎌が登場します。鉄刃を木製棒状の柄に差し込んだもので、手鎌と共存することから、当初は収穫具というよりは下草刈り用に使用したとみられています(写真7)。西日本では原料としての鉄を確保できなかった場合、鉄鎌に似た形と機能の石鎌が製作されましたが、鉄鎌の普及とともに使われなくなり、弥生時代の短い期間だけ使用されていたと考えられています(金関ら,1997)。

 曲刃の大型鉄鎌は、それとほぼ同じものが、中国の戦国時代(紀元前5~3世紀)の華北の遺跡から出土しており、中国北部から朝鮮半島を経由して、日本に渡来したものと思われます。しかし、その後日本では日本人の鍛冶の技術的限界から、直刃の鉄鎌に変化していきますが、日本人技術者も進歩したのか、古墳時代の5世紀中期には曲刃の長さ10~15cmの中型鉄鎌が現れ、イネの根刈りに用いられ始めました(石野ら,1991)。この曲刃の鉄鎌の出現は、イネの成熟の斉一化と雑草防除を促して田植えが広がるとともに、一枚の田に単一種を植え付けることによって根刈りも普及していきますが、根刈りの完全な定着は平安時代中期の11世紀初頭と考えられています。

(3) 稲穂とモミ

写真8 弥生時代の穂束(唐古・鍵考古学ミュージアム,2017年1月13日)

写真8 弥生時代の穂束(唐古・鍵考古学ミュージアム,2017年1月13日)

 穂刈りまたは抜き穂された穂の部分は、神宮の抜穂と同じように茎の部分で結束されました。奈良県の唐古・鍵遺跡の低湿地から出土した弥生時代前期のものと推定される穂束は、穂のすぐ下のところで切断され、茎を何十本と束ね、稲わらで縛った状態で発見されました(写真8)。この状態で保管されていたことを示すとともに、石包丁による穂刈りであることが裏付けられています(唐古・鍵考古学ミュージアム,2009)。

 稲穂のついた茎の上部のだけのものを穎稲(えいとう)と言い、茎をまとめて両親指と中指をつけて輪にした大きさ(直径約10cm)の束を1把(わ)、10把を1束(そく)と呼びました。正確な枡やはかりなどが普及していない時代には、便利な度量衡(度は長さ、量は体積、衡は重さを表す)でした。1俵は、丁度10束に相当し、白米で当時の5斗(現在の2斗、約36L)、1把は360mLつまり2合の白米に相当する稲穂ということになります。

 穎稲は、奈良時代から流通した銭よりも前から貨幣の役割を果たし、平安時代中期まで続きました(松山,2004)。現在の神宮のお守りなどの授与所の価格表には初穂料○○円とありますが、古代には初穂料○束○把とあったのかもしれません。

 日本で栽培されているジャポニカ稲は遺伝的に脱粒しにくいため、モミが落ちることが少なく、輸送手段としても好都合でした。また、モミでは、いろいろな種類の水稲の種子が混同すると利用が難しくなりますが、穎稲では容易に分離できるため便利であると当時の文献にも書かれています。さらに、モミにするための脱穀には、木臼に穎稲を入れて、竪杵で搗く必要があったので、手間が余分にかかりました。

 奈良時代の租税の出納帳である正税帖には、穎稲の形で収納・貯蔵されていたことが記録されています。このように、いろいろ便利な穎稲でしたが、茎を含むのでモミよりもかさばるため、貯蔵量を増やすため次第にモミに代わっていきました。平安時代中期になると税として一部では穎稲の納入が認められていましたが、モミが普通になりました(松尾,1994)。

 内宮の神事などについて平安時代初期(804年)に編纂された「皇大神宮儀式帳」には、神嘗祭において「宇治御田苅抜穂稲」、つまり内宮の神田で刈った抜き穂の稲を用いたとあり、刈るとは他の文献でも根刈りを意味していることから、根刈りをして抜き穂としたようです。したがって、現在の抜穂祭の稲刈りの儀式のもとなった「皇大神宮儀式帳」の稲刈りの方式は、当時の一般的な農法を踏襲していたことになります。

(4)現代の稲刈り

 脱穀については江戸時代に千歯扱き、明治時代には足踏み式脱穀機の発明などの技術革新がありましたが、鎌を用いた手刈りは古代から、第二次世界大戦後まで続きました。農業機械が普及する前の1970年の米生産の労働時間で最も多くを必要としたのは刈り取り・脱穀作業で、田植えの19.8%に対し30.1%、10a当たり35.5時間も必要としました(農林水産省,2013)。このため、刈り取り・脱穀の軽労化は喫緊の課題でした。

 1959年、大規模機械化を目指した農林省は欧米の麦や大豆の収穫に使われていた普通型コンバインを導入しました。コンバインとは、刈り取りと同時に脱穀を行う「結合した機械」という意味で、普通型とは刈り取った稈をすべて脱穀機に投入するタイプを表します。しかし、この脱穀のための消費動力が大きく穀粒の破損が多かったことと、日本の水田は狭く地盤が軟弱なので大型のコンバインは作業性に難があり、普及しませんでした。

 1960年代には、稈を後方に刈り倒してゆく歩行型動力刈取機やバインダーと呼ばれる刈取・移動、結束を交互に行う機械が販売され、1979年には170万台が普及しました。現在でも、狭小な田や販売米の天日乾燥をセールスポイントにする農家で使われています。

写真8 神宮神田黒皮鳥居前の一般水田における自脱型コンバインによる稲刈り(2016年8月21日)

写真9 神宮神田黒皮鳥居前の一般水田における自脱型コンバインによる稲刈り(2016年8月21日)

 1960年代後半には自動脱穀機を略した自脱型コンバイン(歩行型)が開発されます。この機械は倒伏した稲の引き起こし装置が付き、刈り取った稲株の穂先部分だけを脱穀装置にかけて脱穀するため、普通型コンバインに比べて籾の損傷が少なく、効率的に脱穀が行えるようになりました。また、脱穀後の稲ワラは結束して圃場へ放置するか、カッターで細断して水田に散布します(世良田,1998)。細断された稲ワラは田にすき込まれて土壌の有機炭素やカリウムなどの養分を維持するのに貢献しています。その後、乗用型(写真9)は急速に普及していき、2010年の水稲作付け農家の普及率は、トラクターの105%に対して、コンバインは61%と2軒に1台以上になり、刈取・脱穀の労働時間も3.5時間/10aと機械化前の10%以下に低減しています(農林水産省,2013)。

 神宮神田では、一部で奉仕者が根刈りによって水稲を収穫した後、稲架(はさ)で乾燥させますが、残りは自脱型コンバインで刈り取られます。

(5)ガイド

神宮神田:伊勢市楠部乙1011
列車:近鉄五十鈴川駅下車、東1.0km、徒歩15分
バス:近鉄五十鈴川駅から「おかげバス」四郷小学校下車、徒歩1分
自家用車:伊勢鳥羽自動車道楠部インターチェンジから南へ800m
大阪府立弥生文化博物館:大阪府和泉市池上4-8-27
下関市立考古学博物館:山口県下関市大字綾羅木字岡454
唐古・鍵考古学ミュージアム:奈良県磯城郡田原本町阪手233-1

参考資料:

石野博信ら編(1991)生産と流通Ⅰ,古墳時代の研究4,p1-177,雄山閣
金関 恕ら編(1997)道具と技術Ⅰ,弥生文化の研究5,p1-209,雄山閣
唐古・鍵考古学ミュージアム(2009)ミュージアムコレクションNo.2,p1-29,田原本町教育委員会
松尾 光(1994)文献史料にみる古代の稲作,武光 誠編,古代日本の稲作,p135-176,雄山閣
松山良三(2004)日本の農業史,p1-527,新風舎
農林水産省(2013)農業機械をめぐる現状と対策
世良田和寛(1998)収穫,瀬尾康久ら編,農業機械システム学,p108-117,朝倉書店
矢野憲一(2008)伊勢神宮の衣食住,p1-252,角川学芸出版

執筆者

谷山 一郎

農業環境技術研究所に2014年3月まで勤務。その間、土壌保全、有害化学物質、地球温暖化の研究に携わる。現在は伊勢市在住

環境化学者が見つめる伊勢神宮と日本の食

食や農業と密接な関係がある伊勢神宮。環境化学者の目で、二千年ものあいだ伊勢神宮に伝わる神事や施設を見つめ、日本人と食べ物のかかわりを探る