科学的根拠に基づく食情報を提供する消費者団体

執筆者

児林 聡美

九州大学で農学修士、東京大学で公衆衛生学修士、保健学博士を取得。現在はヘルスM&S代表として食情報の取扱いアドバイスや栄養疫学研究の支援を行う.

食情報、栄養疫学で読み解く!

きっかけは鮭茶漬け? 栄養疫学が自分のフィールドになったわけ

児林 聡美

キーワード:

 東京大学で栄養疫学の研究をしている児林聡美(こばやしさとみ)と申します。
 今後このコラムを通じて、みなさんに、食事と健康に関する研究結果の紹介や、研究を行った際に経験した調査の裏側の出来事、栄養疫学を取り巻く状況などをお伝えできればと思い、執筆をお受けすることになりました。
 どうぞよろしくお願い致します。

 今回は、この栄養疫学という分野がどのような研究分野であるか、内容とその位置づけを説明してみたいと思います。
 そして、私をこの分野に導いてくれた、ありがたい食べ物が、実は「鮭茶漬け」だったというエピソードもご紹介します。

 最初に、栄養疫学の内容と位置づけをご説明しましょう。
 そもそも疫学というのは、たくさんのヒトを調べ、得られた結果をデータ化して分析し、結論を導く学問のことをいいます。
 そして栄養疫学とは、栄養学を疫学の手法を用いて実施する学問のことをいいます。
 研究では、実際に生活しているヒトを対象に、そのヒトがどのようなものを食べ、どのような健康状態なのかを調べます。例えば「○○という食べ物が□□という病気を防ぐ」ことが本当にヒトで起こるのか、ということを、明らかにすることができるのです。

 この「○○という食べ物が□□という病気を防ぐ」という情報が世の中に広まる前には、たくさんの研究者が関わって、様々な研究を行い、どの研究者もその情報がある程度正しいと認めたうえでようやく広まる、というのが正しい流れでしょう。
 その「様々な研究」には、「実験研究」と「疫学研究」の2種類の研究手法が含まれます。

 実験研究とは、細胞や動物を使って行う研究です。
 実験研究では、ヒトの体の中で起こるかもしれない現象を発見したり、それがなぜ起こるのかというメカニズムを解明したりします。
 この段階では、まだヒトで本当にその現象が起こるか、そしてどのくらいの量で起こるのかは明らかになっていません。
 けれども、得られた結果はヒトに応用できる可能性を秘めていますし、次に行う疫学研究のきっかけとして必要なものです。

 一方疫学研究とは、先ほども説明したように、ヒトを対象にして行う研究です。
 実験研究で起こる現象が、実際に生きているヒトで起こるのか、どのくらいの量与えられると起こるのか、ということを明らかにすることができます。
 疫学研究のみでは、得られた結果のメカニズムを詳細に説明することはできませんが、その結果を社会に応用するために、なくてはならない研究です。

 これら2種類の研究は、車の両輪となって進められるべきものです。
 いずれか一方だけで十分ということにはなりません。
 というわけで、実験研究と疫学研究、いずれも同じくらい重要、ということを、まずはご理解頂ければと思います。

 ところでここから、私の自己紹介を兼ねて、エピソードをひとつ紹介します。
 実は、私は最初から栄養疫学を専攻していたわけではありません。
 元々は農学部の出身です。
 農学部時代は食品機能学の分野で実験研究をしており、やはり食事と健康の関係を明らかにする研究に関わっていました。

 実験では、マウスの免疫細胞に食品成分を加えて培養すると、それを加えないときに比べて、免疫に関係するたんぱく質の発現が増えたり減ったりしました。
 そのような科学論文の種になるような現象が、自分の手で引き起こされることに、半ば感動もしていました。
 これが体の中で起こっていたらすごいなあ、食品で病気を予防できたらいいなあ、そういうことに貢献できる研究の仕事っていいなあ、と夢を抱いていたものです。

 とはいえ、ヒトの体の中では実験と同じように、細胞に直接食品成分が触れ続けたり、食品に含まれている状態のまま細胞に取り込まれたりすることはありません。
 私たちが食品を食べると、食品やその成分は体の中で分解され、その分解物の一部が吸収され、血液などによって体の各組織に運ばれていきます。
 そのため、細胞と食品成分が触れるのはほんのわずかな時間ですし、その成分も体の中では分解され、別の形に変わっているかもしれません。
 それでも実験の場合は、「なぜ?」というメカニズムを説明するために、なるべく単純化しなければならないので、このような手法を使うのですね。

 さて、少し記憶に頼ってしまうあいまいな情報になりますが、あるとき先輩が学会でご自身の研究発表をされました。
 その内容は、がん細胞に緑茶の成分を加えて培養すると、がん細胞の増殖が抑えられる、というものでした。
 さらにその現象は、ビタミンAを添加すると、より強く見られる、ということでした。

 その数日後のことです。
 あるテレビの健康情報番組で、「鮭茶漬けががんに効く!」と紹介されていました。
 よく聞いていると、その情報の元になっているのは、先輩の発表された、あの研究です!
 緑茶の成分ががん細胞を抑制するので、ごはんだけで食べるより、お茶漬けがいいと言っています。
 さらに、鮭にはビタミンAが含まれているので、一緒に食べるとより効果的なのだそうです。

 情報はこうして作られるのか!と衝撃を受けた瞬間でした。
 今まで健康情報番組を見て、色々なことが分かってすごいな、と感心していたのに、提供される情報と、その元になっている科学的根拠の間には、こんなに議論の飛躍があるなんて…。

 先輩の発表は、「がん細胞の増殖が抑えられた」という現象を、そのまま紹介しただけです。
 それにその結果は、単に実験室で、細胞を用いたときに起こっただけのこと。
 ヒトでも起こるかどうか、確かめていません。
 そして、学会でも、決して鮭茶漬けがいいとは言っていません。
 それがこうして世の中に情報として広まってしまうなんて、なんと悲しいことだろう。

 一方、研究室の人たちは、この情報を聞いてただ笑っていました。
 細胞や動物の実験とヒトの実験を同じに扱ってはいけないことを知っている人は、「そんなことあるわけないでしょ」と当たり前のように思い、このあまりの飛躍ぶりが面白すぎて、笑ってすませてしまうのですね。

 でも、一般の人はどうでしょうか。
 特に、本当にがんになってしまった人はこの情報にすがる人もいるかもしれない。
 そう思うと笑ってなんかいられないはずなのに…。

 こんな経験をしてからというもの、私は実験に身が入らなくなってしまいました。
 実験をして、研究成果を出しても、その情報は一般の人には全く正しく伝わらないのか。
 研究者になっても、それで人は救えないのか。

 この情報の最大の問題点は、車の両輪であるはずの疫学研究の結果を全く用いず、実験研究の結果だけを用いて、日常生活に応用しようとしたところにあります。
 しかし、当時「疫学」という分野を知らなかった私は、問題点がどこにあるのかをはっきり認識することができず、違和感を抱きつつもその正体が分からなくて、ただもやもやしていました。

 そしてそのような思いを抱くようになってしまった私は、一度研究の世界を離れました。
 これが、私が疫学研究の世界に向かっていくことになった、最初のきっかけとなったエピソードです。

 その後、自分は研究自体に挫折したのだと思い込んで公務員として働いていたのですが、ひょんなことから結局は研究の世界へ戻ってくることになりました。
 ただし実験研究ではなく、疫学研究の世界にフィールドを変え、そして今に至っています。
 このあたりの経緯に関しては、またどこかでご紹介できるかもしれません。

 まだ疫学研究者として仕事をするようになってからは日が浅く、毎日が学びの連続です。
 そんな私でも、世の中の役に立つ正しい情報を提供するために何ができるのか、日々考えながら過ごしています。
 これもすべては、この鮭茶漬けにまつわるエピソードがあってこそ、なのかもしれません。

 ちょっと手軽に食事を済ませたいときに、お茶漬けをいただくことがあります。
 そのときは、市販のお茶漬けの素を半分だけいれて(減塩のため)、疫学研究の分野に目を向けさせてくれた感謝の気持ちをおかずに、ゆっくり(肥満防止のため)いただく。
 これが私のお茶漬けの食べ方です。

執筆者

児林 聡美

九州大学で農学修士、東京大学で公衆衛生学修士、保健学博士を取得。現在はヘルスM&S代表として食情報の取扱いアドバイスや栄養疫学研究の支援を行う.

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