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環境化学者が見つめる伊勢神宮と日本の食|谷山 一郎

どんなコラム?
食や農業と密接な関係がある伊勢神宮。環境化学者の目で、二千年ものあいだ伊勢神宮に伝わる神事や施設を見つめ、日本人と食べ物のかかわりを探る
プロフィール
農業環境技術研究所に2014年3月まで勤務。その間、土壌保全、有害化学物質、地球温暖化の研究に携わる。現在は伊勢市在住

25 アユ・・・占いの魚と瀧原宮

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2016年10月18日
写真1 雨上がりの瀧原宮御手洗(2015年7月4日)

写真1 雨上がりの瀧原宮御手洗(2015年7月4日)

(1)アユの生態、漁法と加工

 アユは味や香りが日本人に好まれるばかりでなく、姿かたちが優美で川魚の女王と呼ばれ、日本の多くの河川に生息し、昔から日本人の食卓や神饌の魚として親しまれてきました。

 アユの分類は確定していませんが、ワカサギやシシャモなどと同じキュウリウオ目のアユ属の魚とされています。北海道以南の日本各地および朝鮮半島、中国沿岸部など極東に分布しますが、石の少ない中国大陸の河川はアユの生息に好適ではなく、分布の中心は日本になります。

 アユの語源は、アが愛称の接頭語、ユが魚を意味し、まさしくザ・フィッシュで古代人にとっては川魚の代表であったのでしょう。また、アユは神前に贄(にえ)として供えたため、餐(あえ)と呼んでいたのが「あい、あゆ」の発音に変化したという説もあります。日本書紀の景行天皇紀には「尾張国の年魚市郡(あゆちごおり)の熱田社」とあり、現在の愛知県はこの「あゆち」に由来するといわれています(矢野,1981)。

 アユを表すのに古くは安由や阿喩の漢字が使われましたが、中国にならって年魚と表記するのが一般的となります。これは、アユが秋に河口で産卵し、孵化仔魚は冬に海で動物プランクトンを主食にして育ち、春になると川を遡上して、中流から上流の瀬になわばりを作り、川底の石に付着している珪藻や藍藻を歯で削り取って食べて成長し、秋になると河口へ下って一生を終えるという一年生だからです。

 鮎という漢字は、日本書紀に記されている神功皇后のアユ占いの伝承にもとづいて、使われるようになりました。中国ではこの字はネバネバした魚を意味するナマズのことを指しています。また、中国ではアユが独特のスイカに似た香りがあるため香魚とも書き、それが日本にも伝わっています。

写真2 伊勢から瀧原宮へ向かう途中の宮川でのアユの友釣り(2016年7月5日)

写真2 伊勢から瀧原宮へ向かう途中の宮川でのアユの友釣り(2016年7月5日)

 アユの漁獲方法は様々あります。漁具が未発達の時代には素手で捕り、鵜飼は縄文時代後期、稲作とともに中国から伝わったと考えら、6世紀前半につくられた今城塚古墳(19 カツオ節参照)から出土した家形埴輪の軒先には鵜飼の様子が線刻されています(高槻市教育委員会,2012)。簗(やな)漁も中国から伝来した古い漁法で、水流を狭めて竹簀などを使って川を下るアユを受け止めて捕らえます。網漁は漁獲効率が高いものの、乱獲の原因になる危険があります。おとりアユを使いアユのなわばり行動を利用した友釣り(実態は敵釣り)は、わが国独特の方法で、明治になってから考案されました(写真2)。

 アユは古代から消費地近くの川で漁獲し鮮魚として食用とすることが可能でしたが、保存のためさまざまな加工法も工夫され、火干、煮乾、塩漬、鮓および醢(ししびしお)などと奈良時代の木簡や延喜式などに記されています。焼いたり、煮たり、塩漬けにしたものを乾燥させるとともに、鮓は米飯を用いたなれずし、醢は内臓の塩漬け、今のうるかに相当するもの考えられています(奥村,2016)。ところで、旬のアユを冷水で身を締め、洗いや背越しなど刺身として生食されることがありますが、アユは横川吸虫という寄生虫の中間宿主であり、食品安全委員会(2011)ではアユは加熱して食べるように勧めています。

 (2)アユと神宮

 神宮の神嘗祭や月次(つきなみ)祭の大御饌には乾香魚(ひこうぎょ)と呼ばれる干したアユがお供えされます。乾香魚ははらわたを取り除いた丸干しで、頭をそろえ、数尾を白い和紙の帯紙でくくり、土器の上にカシワの葉を敷いて載せます。

 また、1月1日の神宮歳旦(さいたん)祭には塩香魚がお供えされます(矢野,1981)。江戸時代までは、歳旦祭用に伊勢市佐八(そうち)町の漁民が宮川でアユを捕獲し、アユ鮓にして、元日に内宮に奉納していました(大西,1960)。アユ鮓とは、米飯とアユを交互に重ね、塩をして漬け込んだ「なれずし」で、稲作とともに大陸から伝わったとされています。酵母が米飯のデンプンを糖化し、乳酸菌が糖を酸に変えることによってカビや雑菌の繁殖を防いで保存性が増し、酸の作用で骨も柔らかくなり、カルシウムの補給も可能となります(奥村,2016)。

 この歳旦祭は、肉桂、山椒や人参などが入った白散御酒(びゃくさんのみき)と呼ばれる薬酒を供える白散御饌という中国伝来の宮中の習慣が神宮に伝わり、酒の肴としてアユ鮓を加えることが行われていました(阪本,1998)。現在でも、アユ鮓を佐八町民が地元の宮本神社の正月第一日曜日の新年祭に奉納しているとのことです(福所,2001)。

 このほか、江戸時代までは5月3日に御川神事(みかわしんじ)と称し、現在伊勢市内の宮川にかかる度会橋北側の饗(あえの)河原と呼ばれる場所で、外宮神職が網を使ってアユを漁獲する所作をし(実際には付近の漁民が捕獲して奉納)、5月5日の菖蒲御饌に供えられました(大西,1960)。

写真3 伊勢市楠部町の皇女の森(2015 年4月26日)

写真3 伊勢市楠部町の皇女の森(2015 年4月26日)

 鵜飼と神宮の関係では、雄略天皇の皇女で伝承上の神宮斎王であった栲幡皇女(たくはたのひめみこ)が、皇女付きの官僚であった廬城部連(いおきべのむらじ)武彦と不倫関係にあると噂され、わざわいが身に及ぶのを恐れた父親が、三重県中部を流れる雲出川のほとりに鵜飼にかこつけて武彦を誘い出し、殴り殺してしまうという話が日本書紀に出ています。その後、皇女は前途を悲観して五十鈴川のほとりで自殺してしまいます。今でも、その場所が内宮別宮の月讀宮の近くに「皇女の森」として伝えられています(写真3)。

写真4 三重県度会町相可の鮎干物(2016年8月28日)

写真4 三重県度会町相可の鮎干物(2016年8月28日)

 アユの干物は神宮周辺の物産店では見つけられませんでしたが、大阪・奈良と神宮を結ぶ伊勢本街道の宿場町、「高校生レストラン」で有名になった相可(おうか)高校のある度会町相可にある2軒のアユ加工品販売店で、神饌の丸干しではなく、開いた一夜干しを購入できます(写真4)。

(3)アユの占い

 鮎という字は、神功皇后が新羅遠征の際に、今の佐賀県東松浦郡の小川のほとりで、着物の糸を釣り糸にし、針を曲げた釣り針に米粒を餌としてつけ、遠征が成功するなら魚がかかるように占って釣り糸を垂れたところ、すぐにアユが釣れたという日本書紀の伝承に由来するといわれています。今も、各地で矢を射て、的に当たるかどうかで、農作物の豊凶などを占う神事が行われていますが、アユが釣れるかどうかではなく、アユが的に入るかどうかで吉凶を占う神事が三重県にはあります。

写真5 おんべまつりの鮎占い(2016年7月3日)

写真5 おんべまつりの鮎占い(2016年7月3日)

 伊勢市から40km西南西の大紀町滝原にある水戸神神社で行われている「おんべまつり」で、毎年7月の第一日曜日に開催されます。おんべまつりでは、アユを24尾用意し、12尾を近くの内宮別宮の瀧原宮に奉納し、12尾を水戸神神社に供えます。その後、宮川の支流大内山川の大滝峡の河原の大岩に「お鉢」と呼ばれる水を満たした直径60cmほどの凹みがあり、それにめがけてアユ12尾を投げ、凹みに入るかどうかで毎月のアユ漁や農作物の豊凶が占われます(写真5)。お鉢に入れば大吉、岩に当たって外れれば中吉、かすりもしなければ小吉と和やかな占いです。投げ入れるのは町長や瀧原宮の神職など町の名士12名ですが、その他の希望者も自らの運勢を占うために挑戦することが可能です。神事終了後、直会としてアユの塩焼きを食べることができます。

 かつて、大紀町の宮川流域のいくつかの集落では、旧暦6月にアユを漁獲し、鮮魚または焼鮎や塩鮎などに加工して内宮に奉納するとともに、地元でお供えをして内宮を遙拝する行事が行われていましたが、明治維新後いずれも廃止されました。しかし、滝原では、1914年までに再興され、太平洋戦争中は中断したものの、1981年には地元有志が実行委員会を立ち上げ「水戸神神社のおんべまつり」として現在に続いています。

(4) 瀧原宮

 おんべまつりでアユが奉納される瀧原宮は同じ大紀町にある内宮別宮で、宮域は頓登(とんど)川の水源を含む44haの面積があり、神宮の中で河川流域を宮域とするのは五十鈴川流域の内宮とこの瀧原宮だけになります。この宮域林は、約300年前に一部にスギが植林されて以降、伐採されずに今に残されています。

 宮域林にはカシ、シイなどの常緑広葉樹が73%、スギ、ヒノキなどの針葉樹が22%を占め、林床にはシダ類が豊富で、ハナミョウガも繁茂し、熱帯性の腐生植物の希少種ホンゴウソウの生育でも知られています。内宮や外宮宮域内の巨木を倒した伊勢湾台風にも耐えた貴重な森ですが、1945年6月になぜか米軍機が宮域に焼夷弾を投下し、その影響で神木として崇められていた樹齢約300年の太郎杉が枯死したため、その輪切り部分が神宮徴古館の農業館に展示されています(大宮町,1986)。

写真6 瀧原宮(右)と瀧原竝宮(左)(2016年7月3日)

写真6 瀧原宮(右)と瀧原竝宮(左)(2016年7月3日)

 一の鳥居から杉並木を100m進むと斎館があり、その裏の御手洗(みたらし)において樹冠に覆われた頓登川を流れる水で手を洗えば、周囲の景色に心も洗われます(写真1)。さらに、100mほど進むと正殿が二つ並び、奥が瀧原宮、手前が瀧原竝宮(ならびのみや)で、内宮の正宮と荒祭宮と同じように、それぞれ天照大御神の和御魂(にぎみたま)と荒御魂(あらみたま)を祀るとされています(写真6)。伝承によれば、倭姫命が天照大御神の宮所を求めて巡行した際に、宮川を船でさかのぼり、この地に一時宮社を建てたと場所といわれています。また、この地点から南に一山越えれば、神宮の神饌の海産物の供給地であった南島地方で、その地域の人々が神宮を遙拝するために集う拠点であったという説もあります(大宮町,1987)。瀧原宮の後方奥に若宮神を祀る瀧原宮所管社の若宮神社があり、その手前には外宮の豊受大御神と同じように御饌を司る長由介(ながゆけ)神を祀る長由介神社があり、そこには川島神を祀る川島神社が合祀されています。

写真7 御船倉(左)と瀧原竝宮(右)(2016年7月3日)

写真7 御船倉(左)と瀧原竝宮(右)(2016年7月3日)

 瀧原竝宮に隣接して、御船代(みふなしろ)が納められている御船倉(みふなくら)と呼ばれる、小さな倉庫があります(写真7)。御船代とは、正宮や別宮の鏡などの神体を納めた御樋代(みひしろ)と呼ばれる円筒状の木製の容器を、御被(みふすま)や御衣(みそ)と呼ばれる絹の織物などに包んで収納したヒノキをくりぬいた長さ2mほどの長方形のふた付き箱で、古墳時代の舟形木棺・石棺に似た形をした容器です(穂積,2013)。

 遷宮で神体を移す際には、古い御樋代や御船代から取り出された神体を仮御樋代、さらに仮御船代に納めて新しい社殿へ移動し、その後新しい御樋代と御船代に納めて社殿に祀るとのことです(小堀,2011)。その古い御船代が御船倉という専用の施設に納められているのは瀧原宮だけです。その理由はさまざま挙げられ、倭姫命が乗った船を納めていたとか、古代にこの地域に勢力のあった古事記にも出てくる舟木氏との関係などが上げられていますが、詳細は不明です(大宮町,1987)。

 伊勢市からは離れていますが、一度は参拝したい125社の一つです。

(5)ガイド

皇女の森:伊勢市楠部町乙42-7
鉄道:近鉄宇治山田駅下車 東500m、徒歩10分
自家用車:伊勢自動車道「伊勢IC」より東南600m約1分
瀧原宮:三重県度会郡大紀町872
鉄道:JR紀勢本線滝原駅下車 北東1.8km、徒歩25分
自家用車:紀勢自動車道「大宮大台IC」より国道42号を尾鷲方面へ約3km約5分
水戸神神社:大紀町滝原 大滝峡
鉄道:JR紀勢本線滝原駅下車 南西2km、徒歩30分
自家用車:紀勢自動車道「大宮大台IC」より国道42号を尾鷲方面へ約7km約10分

参考資料:
福所邦彦(2001)「宮川のアユ」十話,伊勢郷土史草,44,65-79,伊勢郷土会
穂積裕昌(2013)伊勢神宮の考古学,p1-208,雄山閣
小堀邦夫(2011)伊勢神宮のこころ、式年遷宮の意味,p1-317,淡交社
奥村彪生(2016)日本料理とは何か,p1-606,雄山閣
大宮町史編纂委員会(1986)大宮町史自然編,p1-534,大宮町
大宮町史編纂委員会(1987)大宮町史歴史編,p1-1133,大宮町
大西源一(1960)大神宮史要,p1-894,平凡社
阪本廣太郎(1998)神宮祭祀概説,p1-519,神宮文庫
食品安全委員会(2011)横川吸虫,平成22年度食品安全確保総合調査「食品により媒介される感染症等に関する文献調査報告書」
高槻市教育委員会(2012)今城塚古代歴史館常設展示図録(改訂版),p1-41,高槻市教育委員会
矢野憲一(1981)魚の民俗,p1-190,雄山閣

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